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旧約聖書

十誡 ー約束の地を求めてー

王はその民に向かって言った。「イスラエル人は我々よりも数を増やし、大いなる力を貯えてしまった。かれらがこれ以上数を増やし、戦いの時には敵側についてわれわれと戦ったあげく国から逃げ去ることのないように、我々はかれらをぬかりなく扱うようにしよう」。それで、エジプトの民はイスラエルの民の上に監督を置き、重い苦役を課してかれらを苦しめた。(「出エジプト記」1章9ー11節)

ファラオはエジプト王の称号ですが、このファラオについては、諸説ありますが、一般には第19王朝のラムセス2世とされています。
ファラオはヘブライの民を根絶やしにするため、国民にヘブライの男子が生まれたらナイル河に投げ込むように命じました。

さて、水浴びをしていたファラオの娘は葦の籠をみつけ、侍女に開けさせてみると、赤子が泣いていました。ヘブライの子であることはわかったものの、不憫に思いその子を助けることにしました。水から引き出したためにその子をモーセと名づけました。

モーセ(Moses)の通俗語源はヘブライ語の「引き出す」を意味するマーシャ(mashah)です。この名前から、エジプトで虐げられていた同胞を「引き出」して救う者、すなわち「救済者」の意味がでてきます。イエスが救済者と呼ばれるように、モーセは最初の救済者としてイエスと予型論(聖書解釈法の一つ。旧約のうちに、キリストに対する予型を見出す解釈法)的に結ばれています。

成長したモーセは妻帯し、岳父の羊を飼っていました。「よき羊飼い」としてのキリストの姿が重なります。
ある日、神の山とされるホレブ山にモーセは羊の群れを導いてきました。
そこで主の御使いが焔につつまれた柴の中にあらわれましたが、焔はたっているのに柴は燃えていませんでした。なぜ燃え尽きないのかを見定めようと脇にさがると、柴の中から主がモーセを呼ばれます。

「わたしはおまえの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を見ることを恐れ、顔を隠した。主は言われた。「わたしはエジプトにいるわたしの民の苦悩をつぶさに見て、監督者に苦しめられた人々の声を聞いた。わたしはかれらの悲しみを知っている。わたしは下って、エジプト人の手から彼らを救い出し、良き広き地、乳と蜜の流れる地、すなわちカナンびと、ヒッタイトびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとの住まう地へと導く。」(3章6-8節)

神がモーセにイスラエルの民のところへ行って神の意図を伝えよと命じたとき、モーセが神の名を問う場面があります。

「わたしはあってある者」。また神は言われた。「『わたしはある』という方がわたしを遣わされたのだ、とイスラエルの民に伝えよ」。(3章14節)

「あってある者」とは”I AM THAT I AM”であり、「みずからを存在させる者」の意味です。
ヘブライ語で「ヤハウェ」(Yahweh)をあらわすYHWHの翻訳で、もとの意味は「在る」とか「生ずるようになる」です。ヘブライ語は本来子音のみで表記され、それを読む者が自分の教養と見識で母音をおぎなって判読しました。ヘブライ語ではYHWHに相当する大文字4つを並べて聖なるものをあらわすきまりがあり、これをテトラグラマトンといいます。英語で「主」をLORDと大文字で表記するのも、これを意識してのことでしょう。

古代社会では固有の名は聖なる者だけがもつものであり、それを口にすることはタブーとされました。名前を使うことはその本質を露呈することになり、名前を知ればそのものの存在を支配したり、存在自体にかかわりをもつことになると考えられたからです。
ですから、神がモーセに名を名乗ったことは、神が自分の正体を明かしたというにひとしいのです。


さて、若干内容を飛ばしますが、『手塚治虫の旧約聖書物語』を読むなりなさって補って頂きたいと思います。


モーセが十誡を授かったシナイ山は古くから神の宿る山とされていました。

シナイ山と聖カタリーナ修道院

20章1節に「神はこのすべてのことばを語って言われた」とありますように、十誡は十の「ことば」からなっていました。「汝・・・することなかれ」という定形の言い回しが基本となります。英語でも十誡は”Ten Commandments”「十の命令」のほかに、”Decalogue”「十のことば」ともいわれています。

第1条では唯一神の崇拝が求められ、第2条では偶像崇拝が禁止されています。
プロテスタントでは教会で神像を用いることを否定しましたが、カトリックではキリストの受肉によりこの条項は修正されたとして、信者を教導するためのキリストや聖人の像の使用を認めました。東方教会で独自の発達形態をみた「イコン」の崇拝などは、その典型です。
ローマ・カトリックにみられる聖母マリア崇敬はプロテスタントによって軽蔑されもしましたが、信仰の具体的な証しをとおして背後にある神秘的な実体に思いをはせようとするのは、人間の自然な欲求なのでしょう。宗教から神秘性を醸し出す要素をすべて剥奪してしまえば、宗教は平板な道徳律の寄せ木細工になってしまうでしょう。

十誡の内容は具体的で現実的です。
十誡をはじめとする律法にしたがって「目には目を」式の生き方のほうが、キリスト教の「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」式よりも、受け入れやすいでしょう。

ところで、紀元前1700年ごろに制定された「ハムラビ法典」の基本的な考え方は同一手段による報復です。これを「同害刑法」といいます。誤解されるのは、これはあくまでも報復は同じ程度で止めよということであり、積極的に相手に物理的な損害を与えていいということではありません。

モーセは約束の地を目前にしながらヨルダン河を渡ることができず(この問題については様々な推測がなされてきておりますので、ここでは触れません)、自分にかわって従者のヨシュアにあとを託します。
「ヨシュア」”Joshua”の名前の意味は「ヤハウェは救いなり」ですが、これは「イエス」”Jesus”と同じ語源の名前です。
人々を最終的に「約束の地」へと、あるいは「神の国」へと導く2人の人間の姿が、ここに重なるのです。


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