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旧約聖書

天地創造

はじめに神は天と地を創造された。
(創世記1章1節)

厳密には、「昔むかしに」神は天地を創造された、ということばで聖書ははじまります。英語の聖書では”In the beginning”となっていて、これは昔話をはじめるときの決まり文句である”Once upon a time”と同じ意味であり、いつとは特定できないが、「その昔」に神様が世界をおつくりになった、ということです。

では、神様はいつからおられたのでしょうか。
聖書では神は「はじまり」という「時」の概念からも超越しており、時を含むすべての事象の根拠として「いる」ことになっています。

さて、神様は6日目に人間をつくられました。
神様は自身の姿に似せて人間をつくり、すべての生き物を統治する権利を人間に与えました。つまり、人間には神と同様に「位格」がそなわっていることになります。
位格とは英語の”person”であり、ラテン語のペルソナ(persona )にあたりますが、知恵と意思をもつ独立した主体のことです。
人間は本能ではなく理性により自身の存在を律し、神の法を悟り、従順の命を負うことになります。
キリスト教ではこの世において肉体と聖性との結びつきがもっとも強いのは、神の写し絵である人間であり、この概念の頂点にキリストの受肉が位置します。

楽園には、「生命の木」のほかにもう一本善悪を知る「知恵の木」があり、その木の実は摂ってはならないとされていました。実を摂ったあかつきには死ぬことになるからでした。
イヴはその実を食べると「目が開く」というへびの誘惑にのって、禁断の木の実を食べ、それをアダムに渡すとアダムも食べました。
アダムとイヴは禁断の木の実を摂ることにより認識する力を得ました。

このことは、何を意味するのでしょうか。
まず、へびは、自在な姿形をとる体型もさることながら、その生命力の強さともあいまって、古代から恐怖と畏怖の対象となっていました。そして、へびが信仰の対象にまでなったのも、脱皮という習性に再生の意識が重ねあわされたからにほかなりません。
古代人にとって、死と再生の問題は身近で、大きな関心ごとだったのです。

ウロボロスとは自身の尾を呑み込んで円環をつくるへびのことですが、終わりのない永遠とかを象徴し、ときとして自己完結的であり自己の殻から抜けられない女を象徴することもあります。
男ではあっても、水面に映る自己の姿に焦がれて死んだギリシャ神話のナルキッソスは、自己閉鎖性のもたらす陶酔の危険性を警告しています。
このように考えますと、へびが人間を、それも女(死の中にしか自己を解放する場をみいだすことができない存在としての)を誘惑したことは、理の当然であったということになります。

そして死は、人間が神から与えられた自由意思を用いて「知恵の木」を選択した結果もたらされたと説明されます。
人は無垢とひきかえに、人として生きる知恵を得たのです。
楽園がいかに善に満ちて、神の恩寵に満たされていようとも、無垢、無知の状態であれば、人は善も恩寵もそれと意識することはないでしょう。

楽園の内側では客観的な時の流れはなく、ただ常春の心地よさだけが人をつつみこみます。恒久の時をはらむ楽園から追放されたということは、時間の支配する世界に身をおくことになります。
英語で楽園喪失を”Fall”といいますが、人間はほんらいいるべきはずの楽園から悪に染まったこの世に文字通り「落っこちて」きたのでしょう。

しかし「落っことされた」のは、ふたたび上の世界に戻ろうとする意識を人間に呼び覚ますためであったとされます。つまり、100%の善の中にいるのでは善の善たる意味が了解されないために、人間はいったん悪に染まった現世に落ちてから、救済という善を知ることになるのです。悪を経験することは、よりよく善の意味を知るのに欠かせないというわけになります。
事象一般を相対化することなく、外部の世界から遮断された空間に閉ざされたままでいることは、楽園の内側で意識を眠らせていた未熟な人間であり続けることを意味することになります。

へびの誘惑により閉ざされた意識と空間が破られたからこそ、2人の裡に眠っていた人間性が目覚めたのです。

そして死を生の前提として、限られた期間のうちにいかに生の荒野を楽園に近づけるかという意識こそが、やがて人間の文明を開花させる力となるのです。


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